【ロックフェラー3世もラブコール】日本最後の侍「中村天風」とは | コミ知恵BLOG

【ロックフェラー3世もラブコール】日本最後の侍「中村天風」とは

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中村天風は、明治、大正、昭和を生きた軍人(諜報員)、実業家、思想家です。

このブログでは、たびたび紹介している凄い人です。

まさに日本版ランボーのような人が、悟りをひらいて哲学を打ち立てる・・といった人生なんですが、その哲学と生きざまに惚れこむ人が、時代を超えても後を絶ちません。

 

中村天風は、メンターのメンターと言われるような人です。

多くの人がメンターと仰ぐ偉人たちが、さらに上のメンターとして仰いでる方。

中村天風を、師として仰いだとされる人物を一部紹介します。

■ 経営の神様、パナソニックの創業者松下幸之助

■ メジャーリーガー大谷翔平

■ サッカー元日本代表 長友 佑都

■ 京セラ 創業者 稲盛和夫

■ 元テニスプレイヤー 松岡修造

■ 作家・デザイナー 宇野千代

■ 元帥海軍大将  東郷平八郎

 

それでは、中村天風の人生をかなり端おりながら、書いてみます。

中村天風の人物像

 

明治9年、中村天風こと、中村三郎は東京の王子で生まれました。

幼い時から手の付けられないやんちゃな天風は、九州の親戚に預けられます。

幼少から青年期まで

その親戚は、柳川藩藩主の立花家と縁のあるお家でした。

そこで中村天風少年は、立花家に代々伝わる随変流(ずいへんりゅう)剣術を修行し、若くして達人にまでなります。

 

高校は名門の修猷館高等学校に入ると、柔道部で活躍します。

しかし、このとき事件が起きます。

 

練習試合で訪れた高校には勝ったものの、試合後、相手の腹いせによる待ち伏せに出会います。

天風一人がつかまり、10人以上からのリンチにあいました。

翌日天風は、相手生徒の自宅を一軒一軒まわり、お礼参り(報復)をしました。

最後の相手大将は出刃包丁を持ち出し、揉み合った結果、相手大将を刺してしまいます。そして翌日、病院で亡くなってしまいました。

しかし天風は、正当防衛が認められ釈放されます。ただ学校は退学となり、東京へ戻りました。

玄洋社の豹、と言われた青年期

天風は、日本最初の右翼団体とも言われる「玄洋社(げんようしゃ)」の世話になることとなりました。

ここで、天風が最初の恩師と仰ぐ「頭山満(とうやま みつる)」と出会います。

頭山は玄洋社のトップで、とても懐の深い男気にあふれた人物だったそうです。

中村天風の名は、頭山満が名付けたものでした。

当時天風は「随変流」の抜刀術「天津風(あまつかぜ)」をよくやるので、「天風(てんぷう)と名のれ」と言ったそうです。

 

中村天風は気の荒い青年時代、「玄洋社の豹」と恐れられるような人物だったそうです。

死線を歩いた戦場時代

ある時、陸軍のスカウトが玄洋社を訪れます。

「ここで一番の命知らずの若者を、預けてくれないか」

頭山満は、中村天風を差し出しました。

 

それ以降、天風は軍事探偵として満州(今の中国)で、活動することになります。

ちなみに軍事探偵とは、今でいう諜報員、スパイ、偵察隊員のことです。

 

敵地に単身で潜り込み、工作活動や偵察、だましたりするのが仕事です。

当然、敵に包囲されたり、捕まったり、、

リスクの高い命がけの仕事です。

実際、満州に送られた軍事探偵は113人。生き残ったのは9人(天風ふくめて)だったというから、相当に危険な仕事です。

 

しかし天風は、軍事探偵の仕事が水にあっていたのか、とても頭角を現してきたそうです。

こんなエピソードがあります。

ちなみに天風は日清戦争、日露戦争で軍事探偵として活動していました。

■ 目の前に天を仰ぐような大男が、ぶっとい青龍刀をブンブン振り回し、威嚇しています。

天風は、スパイが忍ばせる仕掛け杖(かくし刀)しかありません。

仕掛け杖を抜いて構えますが、あまりの威圧感に足が震える思いでした。その時、剣術を習った祖父の言葉を思い出します。

「最後は度胸だ」

「腕前よりも、度胸がまさる方が勝つ」

その言葉を思い出した時には、切り込んでいたと言います。

どう切り込んだのか記憶もなく、気づいた時には相手は倒れていたそうです。

この時から天風は「人斬り天風」とも呼ばれました。

■ 敵に捕まり、手かせ、足かせ、首かせを付けられたまま、深く掘った穴の中に放り込まれたとき、空を見上げながら、こう思ったそうです。

「産まれた時からこの格好と思えば、なんのことはない」

そう腹を決めると、空に流れる雲を見ながら楽しめたそうです。

■ ロシアの騎兵隊、コサック兵に囚われ牢獄にいれられます。
敵看守がやってくると、ニヤニヤしながらこう言いました。

「明日の朝早く、お前は銃殺刑になるぞ」

「あー、そうかい」

そう言って大の字になると、深く熟睡したそうです。

翌日、天風は木柱に縛られ、目隠しを付けられるとき

「日本男児に目隠しなど不要!!」

そう言うと、銃を構える敵兵を睨みつけたそうです。

そのとき、密かに救出に来ていた日本兵が、手りゅう弾を投げつけます。

天風を木柱ごと抱えて走る日本兵たちを見て、「こいつらの方が慌ててやがる」

そう思った天風は、銃弾が飛び交う中「おい、おろして、紐をほどいてくれ」と言って呆れられたそうです。

 

命知らずの武勇伝は戦場だけにおさまらず、炭鉱のストライキの現場など数知れませんが、どんな無茶な男であるかはお解り頂けたと思います。

不治の病とインドの修行

日露戦争終結の翌年、天風は当時、死病であった肺結核を患ってしまいます。

このとき天風は30歳でした。

 

戦場では勇猛果敢で命知らずの天風でしたが、病気となると心も弱くすさんでいったそうです。

それは自分でも驚くほど弱気になり、死への恐怖が止まなかったそうです。

「病気というのは身体ばかりでなく、心まで弱くしてしまうものなのか・・」

そう改めて思ったそうです。

筆者
のちに、この考えは真実の真反対であることを悟ることになります
天風
日本で治らないのなら、当時進んでいた欧米で何か救いがあるかもしれない

なんとか気力を振り絞り、密航までしてアメリカへ渡ります。

アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ・・・さまざまな医者や、哲学者、宗教家を訪ねて回りましたが、結局天風にとって救いになるようなものは、何も得られませんでした。

天風
もう長くない、どうせ死ぬのなら故郷で死のう・・

諦めた天風は、日本に向けて船に乗ります。

しかし天風の船は、前方の船の座礁によりスエズ運河で足止めをくらいます。

 

そこで天風は船の食堂に、ヨロヨロとした足取りで行ってみると、どこかの国の王様のような恰好をした人とお付きの人々を目にします。

その集団は何やら面白いことをしていました。

① 食卓にたかったハエに、王様が指をさします。

② ハエがピタリと動かなくなる

③ お付きの人たちが、箸でハエを掴み灰皿へ捨てる

天風がこんな光景を、驚きながら見入っていました。

すると王様らしき人が、天風に手招きをして呼びます。

 

天風が近寄ると、王様は流ちょうな英語でこう言い当てます。

王様らしき人
YOUは、胸に重大な病を患っているね

「解るんですか??」

天風が驚くと

王様らしき人
インスピレーション!

その王様らしき人は、インドの位が高いヨギ(ヨガをする人)でした。

「治したければ、付いてきなさい」

ヨギの言葉に天風は、一つ返事でYESと言っていました。

 

このヨギこそ、天風が2人目の恩師とあおぐ、カリアッパです。

 

修行は3年あまり続きました。

カリアッパは、天風に「病気のことを忘れなさい」と説きます。

しかし天風は、身体がやせ細り、痛みがあり、血を吐く自分を見ながら、病気を忘れるなんてできないと訴えます。

修行を課しながら、カリアッパはひたすら

心のあり方

思い込みの力

言葉の力

などを説きます。

 

修行は

■ 10キロの石をかつぎなら、6キロの険しい山道を登り、そこで毎日瞑想する

■ 人の声もかき消されるような滝壺の真横で瞑想し、鳥の声や虫の声を聴き分ける

■ マイナス温度のヒマラヤの川の水に浸かる

などなどでした。

 

そして遂に天風は「病気のことを忘れる」という偉業を成し遂げ、不治の病である結核を自然治癒してしまいました。

筆者
自然治癒と言っても、自然になくなったというのでなく、邪念や不の思い込みが消えて、人間が本来持っている治癒力のパワーが結核を治してしまったという解釈です

事業を投げ捨て、インドの教えを世に伝える活動

その後日本に帰り、太平洋戦争も経験しました。

 

終戦後は会社や銀行など複数の事業に係わり、豪遊する日々だったそうです。

ある日、一人目の恩師、頭山満のはからいで、インドの修行について講演することになりました。

その時の聴衆の反応が、忘れがたく

天風
この教えを体系化し、世の人々に伝える活動がしたい

そう思ったら一念発起、すべての事業を投げ捨てます。

上野公園などで単身、インドの教えを天風が体系化した「心身統一法」について、演説をする毎日をはじめます。

するとその話に共感した人々が、集まりだしました。

中村天風の教え

中村天風の名言、格言

 

中村 天風のことば■ 常に善良な言葉、勇気ある言葉、お互いの気持ちを傷つけない言葉、お互いに喜びを多く与える言葉を使おう

■ 人の心、思念力というのは大きな魔力のようなもの。その魔力を使ってよい人生にしなきゃならない。心は秘密の玉手箱だ。

■ 言葉には人生を左右する力があるんです。この自覚こそが人士を勝利にみちびく、最良の武器なんですよ。

■ 「こんなことで怒ってたまるか」負けちゃダメなんです。

■ どんな目にあっても、どんな苦しい目にあっても、どんな思いがけない大事にあっても、平然として対処する。これが私の言う積極的精神なんです。

 

怒らない、恐れない、悲しまない

 

人生も、健康も、心ひとつの置きどころ。

心がポジティブな方へ動くのと、ネガティブな方へ動くのとでは、天と地の差がある

 

結局、天風が言いたいのは、人間にはすごい力があり、それを活かすも殺すも心のあり方によりますよ。

と言っているのです。

潜在意識をきれいに掃除する

天風
怒り、恐れ、悲しみなど、ネガティブな想念が沸くと、宗教家は「そういう考えを巡らせるのは良くない」というが、私は違う

天風は

「潜在意識の中に、そういう考えをする材料が詰まっているから、そういう考えが沸いてくるんだ」

と言います。

つまり、心の奥の大掃除が必要だと言います。

 

瞑想や、自己暗示法など、具体的なやり方は書籍から学べます。

 

 

ロックフェラーと天風

ちょっと、おまけ的な話ですが・・

 

第二次世界大戦中、東京を襲撃したB29爆撃機が撃墜されました。

乗組員がパラシュートで脱出をはかり、降りてきました。

 

その敵兵を民衆が捕まえ、みんなで殴る蹴るの仕打ちをしたあと、その場で処刑が始まろうとしていました。

そこへ中村天風が通りかかります。

曲がったことが嫌いな天風は民衆に向かい、こう言います。

中村天風

その兵隊さんを、放しなさい。

ちゃんと憲兵に引き渡すんだ。

暴徒化している民衆に、度胸満点、堂々と「お前さんたちの子供が敵地で、こんな死に方したらどうだ?」

「敵と言えど、無慈悲に死なせてはいけないよ」

そう言って、敵兵を憲兵に預けると、軍に顔がきいた天風は関係者に「丁重に扱いなさい」と声をかけたと言います。

その時代は、決してそのよう行動をとること自体、非国民と軽蔑される世の中です。

終戦後、助けられた敵兵が、天風を探し当てます。

 

これによって、天風のことが占領軍GHQに知られると、GHQを前に講演をすることになりました。

そこで天風は心の重要性を、占領軍GHQの観衆に説きました。

精神性を重んじていたアジアの島国に、欧米主義、物質主義を根差そうとしていた占領軍GHQに対してです。

天風の講演は、なんと拍手喝さい、大盛況に終わりました。

実はこのとき、来日していたロックフェラー3世ご夫妻が聴衆にいたのです。

 

講演後、天風は感銘を受けたロックフェラーに呼ばれ、しばし対談もしています。

 

その後、アメリカに帰国したロックフェラー3世は、アメリカでの講演会を天風に懇願しました。

何度もラブコールがありましたが、ついに天風のアメリカ講演はなされませんでした。

 

 

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